大工、左官と並ぶ「華の三職」と称され町の人々に愛されてきた鳶。長年修行を積み、蓄積された技術で町をつくり、町火消しとして町を守ってきた、まさに江戸の文化を形成したといっても過言でもない鳶は江戸文化に彩を与えてきました。脈々と続く文化創造のバトンを受け取ってきた鳶高橋は2027年で100年企業となります。江戸から続く鳶の歴史を継承し歩んできた当社の特色をお伝えします。

江戸期の鳶

江戸時代、鳶は町の消火活動を担っていました。

江戸の町は木造家屋が多く、火が燃え上がると一度に多くの家屋が燃えるため、延焼方向の家屋を解体して火を食い止める「破壊消防」という消火活動が一般的でした。家屋構造を熟知しており素早く解体が出来る鳶は、「破壊消防」の担い手として火消仕事の主力を占め、大岡越前の施策の元、江戸八百八町のエリア(江戸町火消しいろは48組)で活動をしていました。

本職である建築領域では、基礎工事・建築工事全般・曳家(ひきや)・木材・石材の運搬を得意とし、火消以外にも祭礼行事・冠婚葬祭の地域活動・祭礼における山車や神輿の仕度・段取り・氏子として神託をうけた正月の行事のお飾り・門松の制作など地域活動の中心を担っていました。

江戸時代から明治・大正・昭和の初期にわたり、鳶は町の共同体として位置し、町の人々は鳶職に仕事を依頼するというシステムが構築されていました。建築・地域消防・地域行事の運営を通じ、江戸の町を形づくる鳶の姿がそこにはあったのです。

江戸きやり・梯子のり・纏ふりなどの火消の鳶の文化は、歌舞伎・落語・大相撲・花柳界と同じ江戸伝統芸能を担う者として知られてきました。それぞれの町において、代々鳶職を世襲していく中で、現在も郷土愛を持ち町々を守るような役割を担っています。

鳶高橋は、東京・新宿の銭湯(湯屋)や映画館、お蕎麦屋さんなど「旦那衆」にとても親切にしていただいておりました。先代が築いた人々との絆は今も色濃く残っており、現在も鳶高橋は新宿伊勢丹の正月飾りの作成・設置、花園神社での恒例行事も参加させていただいています。鳶工事店としてインフラ作りも含め特別な使命感をもって地域の絆を紡いできました。江戸町火消しいろは48組「く組」として先人から受け継いだ精神は今も変わらず息づいています。

鳶高橋の歩み

初代 高橋三蔵

鳶頭として礎を築いた高橋三蔵の功績なしに、鳶高橋の歴史を語ることはできません。

明治43年、三蔵は茅葺(かやぶき)屋根工事と農業で生計を立てている家に生まれました。

昭和2年、16歳になった三蔵は、東京・新宿三丁目の名門鳶工事店 <新三>で鳶工事の修行を積み、25歳頃から鳶工事店として請負業を開始しました。

世の中は戦時色が次第に色濃くなる逆境の時代でしたが、三蔵は建設関連の先駆者の方々、鳶頭の渡辺賢三氏、またはお得意様より工事案件のご用命をいただいておりました。苦難を越えて培った人格と人脈、ものつくりへの実直な姿勢、諸先輩方のご支援をもって当社の骨格ができたのです。

当時担当していた主要工事の一つに新宿伊勢丹ビルの工事があります。建設中の伊勢丹ビルは周囲の建築物と比較して群を抜く高さを誇っていました。

伊勢丹を囲む足場は丸太を縄で結束して作ります。巨大なビルを囲む丸太足場は壮大で、「まるで丸太が芸術作品のいでたちに昇華した!」といわれたそうです。

当時、東京の建築物は主に木造でしたが、鳶高橋は先駆けて普及し始めた鉄骨・鉄筋コンクリート造建築に対応しておりました。

コンクリート打設工事といっても当時は生コン・圧送機械などは浸透しておらず、コンクリートを練る作業や流し込みは全て人の手で行われていました。運搬も新宿三丁目の置き場から大八車(だいはちぐるま)に丸太を積んで、毎日富久の急な坂を行ったり来たりする重労働が余儀なくされる時代でした。

当時お得意先であった竹中工務店・鴻池組・清水組などからもご縁をいただきダム工事・ホテル新設工事の建築、戦後には市ヶ谷GHQ極東軍事裁判所といった重要拠点の建築に携わる機会をいただいておりました。

二代目 高橋修治

三蔵氏の長男である修治は、母親の提案により16歳で酒屋の丁稚奉公に4年間預けられます。

人と人、心と心のつながりを学び、商売の基礎と厳しさを習得することとなります。

修治は「駕籠に乗る人。担ぐ人。そのまたワラジを作る人。」と、経済の仕組みを的確にとらえる冷静な人でした。

昭和37年、20歳になった修治は父である三蔵を師と仰ぎ鳶工事者としての第一歩を歩み始めます。

昭和50年7月初代、三蔵の他界により鳶高橋を継いだ修治は、変わりゆく建築技術の工法を深く掘り下げ探求していきました。

分業体制になりトータルコストが上がる建設業界において、施工計画の立案を行い責任施工で材工一式自社管理、オールインワンの体制を確立しました。当時パッケージモデルを提案する会社は少なく、より幅広いお得意先を獲得していきました。

修治の人柄と信用により協力会社様や同業者様と幅広く親交を深めていったのもこの時代でした。

当時の代表工事としましては 東京・多摩ニュータウンの造成/新設プロジェクトへの長年における参加などがあげられます。

三代目 高橋慎治

平成22年。それまで当社の社長であった高橋修治が他界し、高橋慎治が社長に就任しました。学校卒業当時は家業を継ぐことは考えておらず、

音楽活動に従事、CMやドラマに自身が作る楽曲が機用されるなど活躍の幅を広げていました。

異なる道も選択できたのですが、先代から紡がれる町との絆、地図に残る仕事に改めて魅力を感じ、代表として会社を継承しました。

リーマンショックや経済停滞が叫ばれる世の中、マイナスからスタートした経営でしたが仲間や多くの方に支えられ今まで歩んでこれました。

江戸の町を形づくった先祖に敬意を表し、先代から紡ぐ地域の絆と精神を重んじながら新たな価値をより多くの方に提供していきます。

鳶高橋のこれから

TOKYO CITY CULTURE INGENUITY

建築プラットフォーム構想2027

グローバル社会と呼ばれて久しくなり、VUCAの時代に突入した現代。長年続く伝統や文化、モノつくりや人との調和は継承しながら、ICT化をはじめとする、モノつくりを視点とした多様なニーズへの対応など「成熟社会における建設需要」に適応しはじめました。 100年近くの歳月に裏打ちされた実績のもと、先人たちの英知という財産を大切にしながら、お客様に日々愛される企業であり続けるよう邁進しています。一般住宅のリフォームや建築はもちろん、商業施設、ランドスケープデザイン、都市開発と職域が広がっている今だからこそ提供できる価値があります。江戸時代、町の中心にいた鳶のように、東京の文化形成に貢献し、21世紀を担う建築を考え、つくり続けます。